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柳の木の下でブランコを漕ぐ

俳優窪田正孝さんを楽しむ私の隠れ家

NHK 土曜ドラマ『4号警備』第1話:ドラマの演出について

昨日の記事で、ドラマ『4号警備』が身辺警護という仕事を依頼人の「生きる」に向き合い、死や危険を一緒に乗り越える仕事として描いていると書いた。今日はそれにまつわるドラマの演出について考えてみる。

 

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死や危険を一緒に乗り越える仕事としての警備

「死や危険を一緒に乗り越える仕事」としての警護は、視覚的にはドラマのなかで橋や橋に類するものによって表現されている。例えば、朝比奈と石丸が広瀬の警護を行う最初の場面が、踏み切りを一緒に渡る場面であることもそのひとつの表れだと考えられるだろう。

その他にも、このドラマにはつぎのようなさまざまな場面で橋や橋に類するものが登場する。

4:00 朝比奈と石丸が高速道路を見渡す場所からバートランドを乗せた飛行機を見送る

5:23 朝比奈と石丸が出会う

17:55 会社から出た後、朝比奈が石丸に声をかける

26:50 警備会社の窓から見える橋

一方で、橋の下を流れる川や走る電車や車、人間の流れ(スーパーへ駆け込む客、廊下を逃げるひと)などは危険や死と結びつく。舞台となる警備会社の近くに川が流れているのも、警備が危険・死と密接に関わることの暗喩と捉えられるだろう。朝比奈の恋人が転落死する場所も高架化された駅前広場であったし、予告のなかで阿部純子演じる上野が転落する場面でもこのイメージが使われている。

死と川、水と女性

死と結びつけられる川のイメージは、広瀬が母親について語る場面(写真上)とボクシングジムで荒れる朝比奈の場面の直後に挿入される数秒の川の風景ショット(写真下)に登場する。亡くした誰かを思い起こすとき、画面には川が映り込んでいる。

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また、水はしばしば女性を表すものとして芸術作品に登場するが、この二つの場面では、川という水辺が広瀬の母親と朝比奈の恋人というように女性の存在を絡める効果をもたらしている。この点、石丸の場合には、石丸の部屋にある水槽やそのなかを泳ぐ二匹の金魚によって妻や娘の存在や彼らに対する石丸の態度が暗示される仕掛けになっている。

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yanabura.hatenablog.jp

 

NHK 土曜ドラマ『4号警備』第1話

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職業ドラマとしての新しさ:より身近なのによく知らなかった警備・警護の世界

4号警備という仕事をこのドラマをきっかけに初めて知った。警備には、施設警備を扱う1号警備、雑踏警備を扱う2号警備、輸送警備を扱う3号警備、そして身辺警護を行う4号警備があるらしい*1。そのなかでこのドラマが焦点を当てるのは4号警備。民間警備会社による身辺警護を指し、拳銃や手錠、警察権限を持たないなかで客の身の安全を守る仕事だ。

服装を見ると警察と似ているようにも思えるが、警備・警護の業務はさまざまな点で大きく異なる。そして、この違いが『4号警備』というドラマ自体の物語の展開や演出にも反映され、刑事ドラマとはひと味違う新鮮さを与えている。

警察の方にもお話したんですけど、犯人を探すことはできても、身の安全を守ることはできないと言われました。それで、こちらに。

今回の依頼人広瀬が警備会社に来た経緯を説明する場面。まず示されるのは業務の目的の違いだ。警備・警護では犯人の特定が目的ではない。そのため、ドラマが向かう方向も犯人の特定がゴールにはならない。冒頭で描かれる外国人要人バートランドの警護の場合にも、広瀬の警護の場合にも、最終的に「犯人が誰であったか」は全く描かれないのだ。犯人の特定や逮捕をゴールに据える刑事ドラマとはまずこの点が対照的である。 

石丸:親族に狙われていると?

池山:それはわからん。とにかく君たちには4号警備業務、広瀬さんの身辺警護についてもらう。

ここでも、広瀬の命を狙っている者が誰かを知ることが、警護にとって、そしてこのドラマにとってそれほど重要ではないことが池山の言葉や態度によって示される。犯人が誰であろうと、犯人がわからなくても、依頼人が希望すれば警護は必要なのだ。

広瀬 :今日私は死にかけました。なので、守っていただきたいんです。

朝比奈:広瀬さん、今日は会社休んでください。

広瀬 :いやです。

朝比奈:いやいや、いま、あなた死にかけたんだから。

それぞれ異なる二つの場面で「死にかけた」という表現が出てくる。いずれも「殺されかけた」と言っても良さそうな場面であるし、刑事ドラマだったら「殺されかけた」というセリフになりそうだが、このドラマではあえて「死にかけた」が使われる。こんな言葉選びからも、このドラマが犯人を中心に据えた刑事ドラマ的な「殺す/殺される」を扱うのではないことが仄めかされている。では代わりに何を中心に描くのかと言えば、依頼人が「どう生きるか」であり、警護によってそれを「どう守るか」なのだ。

朝比奈:いいかげんにしろよ! 死にたくなかったら、死にたくなかったら家にいろよ! 命に関わるんだよ! 生きてなきゃ意地も張れねぇだろうが!

広瀬 :「生きる」ってなんだよ。

朝比奈:「死ぬ」の反対だよ。ばかやろう。

広瀬 :だったら、どうしても行きたいところがある。

この広瀬と朝比奈のやりとりは、このドラマが「生きる」に向き合っていることを最も直接的に表明している場面だ。

朝比奈が言うように「生きる」は「死ぬ」の反対かもしれないが、死んでいない状態は生きていると言えるのか。家でじっとしていれば、息をしていれば、生きていると言えるのか。そうではないのだということを、広瀬の意地を通して私たちは知ることになる。依頼人は死の危険を感じているからこそ「どう生きるか」を真剣に考えていて、警護は依頼人が選んだその「生きる」を守る仕事なのだ。だからこそ細やかな対応が必要だし、警察にはできない仕事だし、お金もかかるのだろう。

このように警護の仕事は依頼人の「生きる」に向き合う。「生きる」に向き合い、寄り添い、ときに危険を一緒に回避する仕事なのだ。だからこそ警護を描くこのドラマは、殺人事件の発生という人の「死」を前提にスタートする刑事ドラマとは全く異なっていて、新しい。

4号警備ではまだ新米の朝比奈と石丸が、依頼人の「生きる」に向き合うことでどう変わっていくのか、これからの展開が楽しみだ。

 

 

 

*1:警備の業務区分については下記でより詳しく紹介されている。

www.nhk.or.jp

『東京喰種トーキョーグール』2巻を読む

 

2巻では、カネキが喫茶店「あんていく」でアルバイトを始め、喰種としての生活をスタートさせる。 ウタさんが「ぼくらが人間社会に溶け込むのなんて、言っちゃえば "終わりのない綱渡り" みたいなもんでさ……」と言うように、喰種たちがいかに苦労をしながら人間に紛れて生活しているのかを読者はカネキ目線で知ることになる。

 

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喰種=虫

喰種は、赫子(かぐね)の見た目や匂い(フェロモン?)への反応から虫の化身のような特徴を持っているが、真戸が発する喰種への言葉にも虫に関する表現が頻出する。

「飛んで火にいる何とやら……」

「羽虫が自ら蜘蛛の網に引っ掛かりおったな」

「母が子のため命を捨てる……クク……虫酸が走るよ*2

「所詮、小虫……。遠くへは行けないさ」

こうやって並べてみると、虫に対する人間の言葉はかなり辛辣だ。「虫」を使った褒め言葉が思いつかない。

 

突如発動されるカネキ=ネコ=窪田正孝という設定

「喰種=虫」の関係が現れる一方で、2巻のカネキは突然なぜか猫になる(たぶん2巻だけ?)。「猫といえば窪田正孝」なので、関連させて読まずにはいられない。

例えば、つぎの場面。カネキが淹れたカプチーノをヒデに持っていくが、デザインカプチーノにはネコの絵が。

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つぎの場面では、カネキは理不尽にもトーカに「ニャーニャーうるさい」と怒られる。

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ヒデ

この物語のなかでヒデはかなり重要な人物だ。原作の中でもまだヒデは謎に包まれているので、細かく見ておきたい。

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この場面、ヒデは明らかに何かに気づいている。カプチーノをトーカではなくカネキが淹れたこと? それとも近江という名の喰種に狙われていること?(実際この後ヒデは近江に追われるが逃げきる。) その両方かもしれない。

「ヒデは変な所で勘が鋭くて、いつも一歩先で僕を気遣ってくれる」とカネキが言うように、ヒデは作品の中でも鋭い推理を披露する。だからこそ、ヒデの表情は細かい変化を観察してみても、一体どこまで何を知っているのかがこちらには分からず、不安な気持ちにさせられる。ふとした瞬間の寂しそうなヒデの表情を見てしまうと、ヒデがつり目がちに笑ってしゃべっているときの方が嘘なのではないかという気さえしてくる。*6

 

喰種の定義

"喰種" 対策法12条1項「赫眼および赫子の発生が確認された対象者を第Ⅰ種特別警戒対象 別称 "喰種" と判別する」この定義によると、カネキは正真正銘 "喰種" ということになる。 

 

ウタさんの首の刺青

この巻でマスク職人のウタさん登場。首に彫られたラテン語の文字は、マルティアリス『エピグランマタ』のなかの一節(12.47)だそうだ。意味は「私はあなたとともに生きてはいけない、私はあなたなしでは生きていけない」(12巻ではウタ自身が刺青の文字の意味をカネキに説明する場面がある)。*7

この詩には直前にももう一文あって、全体ではこのような詩になっている。喰種と人間との関係について語っているようにも読める? 

同じ一人のお前が気難しいかと思えば容易に言うことをきき、

   愉しそうにしているかと思えば苦虫を噛みつぶしたよう。

わたしはお前といっしょにも、お前なしでも、暮らせない。*8

 

XLVII. ON A FRIEND.

You are at once morose and agreeable, pleasing and repulsive. I can neither live with you, nor without you.*9

  

胸のなかの "松明"

「君のその火は正しき世界を求める者には必ず燃え広がってゆくだろう。要は胸の内に "松明" を持っているかどうかだ。火を灯すためのね」と真戸が亜門にかける場面。

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この "松明" という表現、個人的には、コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』に登場する「火を運ぶ  "carry the fire"」という表現を想起する。

ザ・ロードは、詳細不明の災いに見舞われた世界を舞台に、父と子が南へと移動する物語だ。生き残った人間たちの多くは、生き残るために人を襲って食べている(他の動植物がいないほどに荒廃しているため)。そのような状況のなか、父と子は「自分たちは人を食べない。なぜなら火を運んでいるから」と次のように語り合う。

パパの顔を見るんだ。

少年は彼に顔を向けた。今まで泣いていたように見えた。

話してごらん。

ぼくたちは誰も食べないよね?

ああ。もちろんだ。

飢えてもだよね?

もう飢えてるじゃないか。

さっきは違うことをいったよ。

さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。

それでもやらないんだね?

ああ。やらない。

どんなことがあっても。

そう。どんなことがあっても。

ぼくらは善い者だから。

そう。

火を運んでるから。

火を運んでるから。そうだ。

わかった。*11

 

また別の場面では、死を目前にした父親がつぎのように息子に語りかける。

パパと一緒にいたいよ。

それは無理だ。

お願いだから。

駄目だ。お前は火を運ばなきゃいけない。

どうやったらいいかわからないよ。

いやわかるはずだ。

ほんとにあるの? その火って?

あるんだ。

どこにあるの? どこにあるのかぼくは知らないよ。

いや知ってる。それはお前の中にある。前からずっとあった。パパには見える。*12

 

「人を喰う」という設定が重なっているだけではなく、「火」がいずれの作品でも「人間らしさや人間としての正しいあり方(具体的には「人を喰う者がいてはならない」と思う気持ち)」の象徴として使われている点も共通している。真戸と亜門の関係は父と子のような関係にも見えるし、最後に父親が死ぬという点も共通していて、この小説が関係しているように思えてならない。

 

「だから僕はちゃんと自分の目で見てからどうするか決めます!」

「人が死ぬのも"喰種"が死ぬのも それが僕の知っている人だったら耐えられない」

「それが僕の知っている人だったら」というのがポイントだなと思う。この作品でくり返されるメッセージだけど、世の中の問題はたいてい「相手を知らない」ことで生じるし、「相手を知らない」からこそ問題が悪化する。"喰種" も "人間" も相手を知らないからこそ簡単にお互いを殺すことができる。

反対に、食料として生き物を摂取するときには「相手を知らない」ことがむしろ重要になる。角砂糖型の人肉というのはまさに知らないままでいるためには有効な方法だ。私だって個々の牛や豚、魚について深く知ったなら、食べることはできなくなるかもしれない。この点 "喰種" の立場は辛いだろうな。普段共に生活し、意思疎通が図れる "人間" の命を奪わなければいけないのだから。

 

『東京喰種トーキョーグール』3巻を読むにつづく

*1:Photo By wildfires

*2:「虫酸」自体は胃内の酸敗液を指すが、表現の成り立ちには虫が関係しているようだ。「昔は人間の体の中に実体の無い虫が存在して、この虫が悪さをして人間の不快感等を引き起こしていると考えられていたようです。『腹の虫』『虫の知らせ』『虫がおさまらない』などの言葉もここから来ています。」引用元:虫酸が走るの虫酸ってどう言う語源なのでしょうか? - 虫酸が走るの「虫酸... - Yahoo!知恵袋(2016年9月4日アクセス)

*3:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 16/208)東京:集英社より引用

*4:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 30/208)東京:集英社より引用

*5:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 18/208)東京:集英社より引用

*6:おそらくこんな風に考えてしまうのは、ヒデに関するいろいろな説を知ってしまったからと、カネキが嘘をつくときの癖をヒデが知ってることに原因があるように思う。何度も読んでいると、反対にヒデが嘘をついているときの仕草や表情が作中に既に登場しているのではないかという気がしてしまう。嘘なんかついていないのが一番だけど。

*7:このサイトでもウタさんの刺青について質問をしている方がいる。皆気になっているんだな。Nec tecum possum vivere, nec sine te. | 山下太郎のラテン語入門

*8:藤井昇訳『マールティアーリスのエピグランマタ(下)』(p. 253)東京:慶應義塾大学言語文化研究所 より引用

*9:Martial, Epigrams. Book 12. Mainly from Bohn's Classical Library (1897) より引用(2016年9月4日アクセス)

*10:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 88/208)東京:集英社より引用)

*11:コーマック・マッカーシー(黒原敏行訳)『ザ・ロード』(pp. 114-115)東京:早川書房 より引用

*12:コーマック・マッカーシー(黒原敏行訳)『ザ・ロード』(pp. 252-253)東京:早川書房 より引用

『東京喰種トーキョーグール』1巻を読んだ③

少し前に『東京喰種』の原作は『東京喰種:re』も含めて刊行されているものはすべて読んでしまったんですが、相変わらずこのペースで1巻に戻ります。

それにしても読めば読むほどカネキ役は窪田くんにぴったりですね。もはや窪田くんにしか見えない。それでいて物語はハッピーには進まないので気持ちとしては複雑なのですが。

後半は魅力的な登場人物がどんどん登場し、アクションやバトルシーンのオンパレードで正直まだ何が起こったのか物語の整理が追いついていません(映画ではバトルシーンはどうやって描くんだろうか……)。映画公開まで時間があるので、ゆっくり原作を振り返りつつ楽しみたいと思います。

+++++

 

ヒデ「カネキなんかあっという間に喰われるだろーな」

カネキ「僕が "喰種" ならヒデはとっくに死んでると思うよ」

まだカネキが半喰種になっていないときの喫茶店「あんていく」での会話。実際にはこのふたりの予想は覆されることになる。ただしとても悲しいかたちで。『東京喰種:re』最新刊まで読んでから1巻に戻ってみると、このやりとりはとても切ない。

 

揺らぐ "喰種" と "人間" の境界

『東京喰種』には "人間" と "喰種" のふたつの人種(?)が登場する。その描き分けでまず気づくのは吹き出しの色だろう。人間の言葉は黒い文字で、喰種の言葉は白抜きで描かれる。例えば、その区別がもっともはっきり現れている1コマがカネキが自らの境遇に絶望し移植された臓器を取り出そうとする場面だ。

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見開き2ページにわたって描かれるこのコマは鬼気迫るものがある。ここでは「人間に戻ろうとする "人間" としてのカネキ」(黒文字)と「それを許さない "喰種" としてのカネキ」(白抜き)との闘いが視覚的にも分かる形で表現される。「ド」が黒文字で「ん」が白抜きという順番にも納得できるし、カタカナとひらがなの混在も異質なもののぶつかり合いを強調している。  

ただ、喰種が発する言葉がすべて白抜きになるかというとそうではない。喰種たちが普段は人間に紛れて生活しているように、彼らが発する言葉も普段は人間と変わらない形で表現され、人間の世界に紛れ込む。もちろん喰種の言葉が最初から白抜きで出てきたなら誰が喰種であるかがすぐに読者にわかってしまう、それは避けなければいけない、というような配慮もあるのだろう。けれど、どのような理由にせよ、喰種たちが常に白抜き文字で言葉を発しないことは、"人間" か "喰種" かという区別が一見すると個体(キャラクター)ごとに決まっているように見えて、実はその境界がすでに揺れていることを暗示している。実際、作品が進むにつれて "人間" か "喰種"かの境界は曖昧になり、『東京喰種: re』に入るとその境界はよりいっそう不確かなものになっていく。

漫画では吹き出しで描き分けを行っているが、同じ部分をアニメでは薄い赤いもやのようなものを描くことで演出していた。映画ではどのように描かれるだろうか。個人的には、赤くなった "喰種" の目に世界はどのように映っているのだろう、という点が気になっている。

 

ヒトではない自分、ヒトからは理解されない自分に気づくとき

ナイフで自分の体を刺した後、カネキはその思いが叶わないとわかって絶望する。このまま生きていくためにはいつかヒトを食べなければいけない、それをしてしまったら自分はもうヒトではないかもしれない。この場面には胸が締めつけられる。

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私はそんなに漫画に詳しくないのだけれど、この場面を読んだとき、ある別の漫画の1コマが頭に浮かんだ。古谷実*3ヒメアノ〜ル』6巻の見開き2ページに渡る1コマだ。

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このシーンは、森田という主人公の幼馴染が自分が人間を殺すことに快楽を感じていることに気づいて絶望する場面。そうなりたくてなったわけではない、けれど自分は絶対に社会からは受け入れられない異常性を抱えて生まれてきてしまった。そんな森田の悲しみや孤独が、この全身で泣いているシーンからは(穏やかな山の風景との対比もあって)痛いほど伝わってくる。自分の意思とは関係なく半喰種になってしまったカネキの絶望とも重なる。

 

カネキとヒデ

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(カネキを窪田くんが演じることになったからこそ感じるのだけど、)このヒデとカネキの1コマは、私はどうしても『ケータイ捜査官7』のケイタとタツローの関係を思い起こさずにはいられない。

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虫、鳥、卵から生まれるものたち

1巻の最後で店長がカネキに言葉をかける場面。この場面でトーカが蝶に向かって手を伸ばし、蝶が指にとまる場面が描かれる。

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ここでも表現されているように、喰種は赫子(かぐね)の見た目からしてもどこか虫の化身のような特徴を持っている。喰種捜査官たちが喰種たちから「白鳩」と呼ばれているのも、虫を捕食する鳥というイメージと結びつきやすい。

ただ、2巻に入ると喰種の側に「梟」が出てくるのでよくわからなくなる。あと、虫も鳥も卵から生まれることは共通しているな、などと思ったり。

つぎは2巻へ。

yanabura.hatenablog.jp

*1:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 95-96/225)東京:集英社より引用

*2:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 98/225)東京:集英社より引用

*3:このブログで書く機会はないと思いますが、私は古谷実さんの漫画の大ファンです。ギャグ要素を使ってあらゆる突拍子もない可能性に果敢に挑んでいる方として心から尊敬しています。『ゲラクシス』もこれからの展開が楽しみ。

*4:古谷実ヒメアノ〜ル』6巻(デジタル版, 位置No. 180-181/187)東京:講談社より引用

*5:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 156/225)東京:集英社より引用

*6:©WiZ・Production I.G・バディ携帯プロジェクトLLP/テレビ東京ケータイ捜査官7』, DVD File 10, Episode 36「ともだち」より引用

*7:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 218/225)東京:集英社より引用

映画『東京喰種トーキョーグール』の萩原健太郎監督ってどんな方?

映画『東京喰種トーキョーグール』(以下『東京喰種』)の撮影がスタートしています。

すでに目撃情報があるようですが、この暑い時期に大変な撮影になるでしょう。良い作品に仕上がるよう、撮影が順調に進むことを祈っています。

 ***

この作品の監督を務められるは萩原健太郎さん。これまで主にCMや短編映画を撮っている方で、長編作品は『東京喰種』が初めてということになるようです。私は『東京喰種』のニュースをきっかけにお名前をはじめて知ったのですが、下のサイトで萩原監督のこれまでの作品が見られるので、さっそく見てみました。*1

THE DIRECTORS GUILD | 萩原 健太郎

このサイトでは35作品が紹介されていて、萩原監督のほとんどの作品が見られるのではないかと思います。多くはCMで、他にも在日ファンクや乃木坂46のミュージックビデオなども制作されています。*2 ちなみに今年は窪田くんが起用された資生堂スノービューティーのショートムービーですが、昨年のショートムービーは萩原健太郎さんが監督をしていました(主演は二階堂ふみ星野源)。


ショートムービー『資生堂マキアージュ Snow Beauty』本編映像

萩原監督作品を見てみて、私が萩原監督の特徴が表れているのかなと思った作品はつぎのCMと短編映画です。これらの作品は萩原監督が脚本も担当されているようで、そのほとんどが家族や友人、恋人など人間関係に焦点を当てています。(家族モノが弱い方は要注意!)

  •  フレンドシッププロジェクト2015 第一話, Client SEIKO
  •  フレンドシッププロジェクト2015 第二話, Client Microsoft
  •  フレンドシッププロジェクト2015 第三話, Client BANDAI  
  •  フレンドシッププロジェクト2014 第一話, Client JAL
  •  フレンドシッププロジェクト2014 第二話, Client みつばち保険
  •  フレンドシッププロジェクト2014 第三話, Client 龍角散
  •  レイコップ『夫の返信』, Client レイコップ

  •  レイコップ『息子の部屋』, Client レイコップ

  • 短編映画 『café イーハトーブ −いわての くにの ものがたり−』(「いわての県産品販売促進事業」のプロモーションムービー)

    www.youtube.com

  • 短編映画 "Super Star"

 

これらの作品を見てみると、どの作品も正直なところ『東京喰種』とは全くジャンルが異なるのですが、なるほど、萩原監督が大切にされているものと『東京喰種』が描いているものには共通点があるように感じました。二つの点からまとめてみたいと思います(今回の記事では一つ目だけ扱います)。

 

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多面的な出来事描写、多面的なキャラクター描写

 

萩原監督は映画作りにおいてキャラクターを掘り下げてどのように多面的に見せるか…という事が重要だと語る。「好きな映画を思い返してみると、どれもキャラクターが魅力的ですよね。観る人によって主人公の見え方が違うはずですから、より客観的に色んな面を見せる事を考えています」*4

 

ある出来事は人によってそれぞれに解釈され受け止められるし、ある人物は見る人によって人物像が変わる。当たり前のように思われることだが、萩原監督の作品はそのような事実を映像を通して私たちに体験させる。

まず、どの作品にも共通するのは、ある出来事を別々の人物の視点から描くこと、それによって出来事を多面的に描写することだ。萩原監督作品は同じ場所・時間を共有する(あるいは共有していた)人物たちがそれぞれに感じ受け止めている様を丁寧に描く。

例えば、『フレンドシッププロジェクト2015』は「東京で写真がやりたい」と言って上京を決断する息子の物語を、息子(第一話)、父親(第二話)、母親(第三話)のそれぞれの視点から描いている。一連の出来事があるひとりの人物(例えば息子)の視点からのみ描かれるのではなく、父親や母親の視点をバランスよく取り入れ、かつそれぞれの視点に共感できるように物語を構成している。観客は同じ出来事を別の視点から見ることによって、それまで見ていた世界はひとつの見方に過ぎなかったのだと自覚させられ、出来事の多面的な姿に出会うことができるのだ。

短編映画『スーパースター』は大好きな韓流スターのファンミーティングのためソウルにやってきたのに寝坊してしまった追っかけ女性(櫻井淳子)の物語だ。日本語と韓国語で進行するため、韓国語がわからない者にとっては目に入る文字や聞こえてくる音声が刺激としては目や耳に入ってきたとしても、それが一体何を表すのかは理解できないという仕掛けが施されている。物語の途中で主人公が大きな挫折を味わうのだが、その前と後とではソウルの街並みの写り方ががらりと変わる。それまでせかせかと忙しなく映っていたソウルの街が、ラストではソウルの夜景がゆったりと美しく見えるのだ。

『東京喰種』では "人間" と "喰種" という二つの立場が登場し、それぞれの正しさ・正義が衝突する。"人間" にとって美味しそうなご馳走が "喰種" にとっては吐き気を起こさせるものになる。そのような相反する世界の見方を映像を通して提示し、「何が正しいのだろう?」と観客に突きつける。それは萩原監督が得意とする演出なのではないかと思う。主人公のカネキが "人間" と "喰種" 両者の正義を理解しようとして苦しむように、映像を通して観客にもそのような体験をさせることができるかが鍵になりそうだ。

 

つづく

 

*1:作品を見るにはメールで申請をして、パスワードを教えてもらう必要があります。一般人の私でもパスワードを送ってもらえました。

*2:2014年の萩原健太郎監督のミュージックドラマ『FAKE』はこのサイトからは見られず、UULAという動画配信サイトで視聴可能です。私はまだ未視聴。

*3:©萩原健太郎監督『café イーハトーブ −いわての くにの ものがたり−』より

*4:監督 萩原健太郎, 2016年7月25日アクセス