柳の木の下でブランコを漕ぐ

俳優窪田正孝さんを楽しむ私の隠れ家

映画『東京喰種トーキョーグール』には原作愛が詰まっている

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。映画をすでに観ているけれど原作はまだという方で、原作の細部について知りなくない方もご注意ください。ネタバレというような内容ではないですけど。

 

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あまり映画の本筋には関わらないことですが、この映画は見れば見るほどいろいろと発見があって面白い。特に原作を読んでいる方ならおおお?と思うところがいくつかあるので個人的な覚書程度にまとめておく(ちょっと自信がないものもあるのだけれど)。

  • 真戸が食べているドーナツがドーナツマイスターのもの。ドーナッツ・マイスターは原作に登場するドーナツ店の名前。
  • ヒデが渡す東洋史のノート表紙に描かれているカネキの落書きが原作でヒデが描いた喰種予想図(そもそも喰種を予想しようと言ってカネキの絵を描くヒデにおや?と思ってしまう)。映画では最後のシーンで東洋史のノートがヒデのもとに返されるのだが、カネキはヒデに向けてノートに何を書いたのだろう。 

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  • カネキが半喰種になる前のあんていくのシーンの客に何名か(少なくとも2人確認)喰種の常連さんが。客が全員喰種のときにも同じ場所に座っている。一人は原作でヒデを狙ったハンチング帽の男性に、もう一人は青っぽいシャツを着た男性で、原作では亜門戦のあとでカネキを褒める常連さん(「すごいでふ」って言ってる方)に容姿が似ているなあと思った。

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  • ニシキがいる部屋にあるコーヒーがBlondy。
  • タロットカードとローマ数字関連。笛口リョーコが殺される高架下に描かれた死神のイラストとⅧの文字。トーカとカネキが訓練を行う地下には赤いⅢの文字。亜門のデスクの上にあるドリンク飲料にVの文字(これはただの偶然?)。死神とⅧはリューコとヒナミが真戸と亜門に声をかけられるシーン、そして終盤で真戸がヒナミに声をかけるシーンで綺麗に映りこんでくる。
  • あんていくの棚にフクロウのような木製の置物が2体置いてある。見間違えではないと思うけれど「2体」あるっていうところが。
  • 依子のカバンについているキーホルダー?とトーカのケータイについているストラップ(「通れ、通れ」のシーンでポケットから見えている)がおそろいで、原作に登場するzackというシリーズのうさぎのキャラクター「カチカチ」がついている? ストラップのはっきりとした写真は書籍『東京喰種-トーキョーグール-[movie]』に掲載されている。
  • CCGインターフェース。これは映画鑑賞中に見つけるのは難しそうですが、CCGのインターフェースを製作された方のこだわりがすごい。石田スイ先生も驚いている。

 

まだ見つけれていないものがあるんだろうなあ。こんな発見をするのも楽しくて何度も見てしまう。

*1:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 12/225)東京:集英社より引用

*2:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 18/208)東京:集英社より引用

*3:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』4巻(デジタル版, 位置No. 18/194)東京:集英社より引用

「見る」ことによって成長する主人公

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。

 

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主人公カネキの目から始まりカネキの目で終わるこの映画は、長編の原作漫画の序章に焦点を当て、主人公カネキの葛藤と成長を軸に物語を再構成することによって、原作が持つ世界観や普遍的な問いを映像作品として鮮やかに浮き上がらせることに成功している。

萩原健太郎監督が「“見る”ということがどういうことかを描きたかった」と語っているように*1、この作品ではカネキの葛藤や成長において「見る」ことが重要な鍵となっている。それが最も明確に表されているのが、映画の最初と最後に映るカネキの目である。 

冒頭のカネキの目には光がない。(親友のヒデに声をかけられる角度からして)よそ見をしていて物をまっすぐに見ていないし、「喰種かあ……」と他人事のようにヒデの話を聞き、喰種に関するニュース映像にもまともに目を向けない。目の前の活字を追うことにしか関心がないのだ。この作品は、見ようとしない、知ろうとしない、見えていないことにも無自覚なカネキが事件をきっかけに喰種たちと共に暮らし、彼らの生活を目撃することによって、見ようとする、知ろうとするように成長していく物語だ。その成長の過程は、例えば、「分かりません」、「僕は一体何なんですか」、「僕に何かできることはありませんか」、「ちゃんとこの目で見てどうするか決めたいんです」、「何もできないのは もう嫌なんだ」、「あなたたちが正しいとも僕には思えない」、「もっと知るべきなんだ みんな」といったカネキから発せられる言葉からも認識することができる。また、あんていくでスタッフたちとグール捜査官たちの写真を回していく場面でも、カネキが写真を見ようとする姿が垣間見える(四方と入見にスルーされ、ヒナミにやっと見せてもらえるのだけれど)。一連の出来事を経験した後のカネキは親友のヒデ(が座っていた椅子)やあんていくの仲間たちの方を見据え、その目にはしっかりと光が宿っている。

「見る」こと「知る」ことは理性的であることにも結びつけられる。半喰種となり喰種の食欲で飢餓状態になっている様はカネキが理性を欠いている状態を表し、お腹を空かせて涎を垂らしながら繁華街を彷徨い歩くカネキの姿はまるで獣のようだ。その意味でこの作品は食欲を通して喰種の本能に飲み込まれていくカネキが、自分の姿を理性を持って受け入れていく物語でもある。例えば、この映画のなかでカネキがカグネを出して戦う場面はニシキ戦と亜門戦で2回あり、それぞれの場面で物に映し出される自分の姿を見ることになるのだが、あんていくで働き始める前と後とでは目に映るものが異なる。ニシキ戦では、喰種の本能を抑えることができず映し出される自分自身にさえ自分ではなくリゼを見てしまうのだが、亜門戦では自分自身が何者であるかが見えるようになり、理性を取り戻すのだ。

この映画は同時に観客にも見ること、知ること、考えることを促す。原作ではカネキのモノローグによって物語が進行するが、映画はモノローグを排除することによって主人公の内面からは切り離し、観客がより客観的に人間側と喰種側の立場を見ていく設計になっている(そのためにいくつかの場面は原作にはなかったものが挿入されている)。カネキがあんていくで働き始める前まではリゼやニシキによって喰種の残酷な側面が強調されるが、あんていくのスタッフと出会うことによって残酷ではない喰種たちもいることや喰種たちにも人を喰べることに葛藤があることをカネキも観客である私たちも知っていくことになる。他にも、四方が自殺者の死体に手を合わせるところを見るカネキ、カネキが笛口アサキの墓で手を合わせるのを見る草場。目の前でCCGに母親を殺されたヒナミ、目の前で両親を喰種に殺された少年。母親を殺されたヒナミ、息子を殺された草場の母親など、人間側と喰種側の視点が対を成すように配置され、それによって人間と喰種のどちらにも共感でき、どちらが正しい(あるいは間違っている)とは言えないのではないかという葛藤に観客たちを引き込んでいく。

この映画を見る行為それ自体も見るたびに新しい発見を与え、「見る」ことが何であるかを意識させてくれる体験だ。役者の仕草に、セリフの意味に、音楽の効果に、周りの風景に、カグネの質感や動きに、小道具の配置に注目して見てみると、この映画には毎回必ず気づきがある。そんな風にして自分が確かに見ていたはずのものが「見えていなかった」と気づかされるのだ。

最後に、原作をまだ読んでいない方にはぜひ原作も読んで欲しい。映画を見て少しは「知った」と思っていたあのキャラクターやあのキャラクターやあのキャラクターについて、実はまだほんの一側面しか知らなかったのだときっと知ることになるだろう。

 

(8月20日 10:30追記)

「見る」ことについての記述に少し補足を。

最初のカネキは物を見ていないし、見ていないことにも無自覚だと書いたけれど、それは同時に「見られる」ことにも無自覚だということ。特に最初のリゼとのデートシーンでのカネキの挙動不審具合は、まるで素人がカメラの前に立たされたような目の泳ぎとぎこなちでいたたまれない気持ちにさせられる。それを芝居で見せてしまう窪田正孝の技が凄いわけだけれど、素人と役者やタレントの何が決定的に違うかと言えば「見られる」ことへの意識ではないか。リゼに襲われる前にトーカに2度も「見られている」にも関わらずカネキがそれに気がつかないのは、単純にトーカがカネキを認識していることの説明としてだけではなく、カネキに「見られている」という意識が決定的に欠けていることの現れのように思えてならない。

喰種たちはおそらく自分の生存がかかっているからこそずっと「見られること」に自覚的であるはずで、きっとリゼはカネキに「見られている」ことにすぐに気づいたに違いない。

見るべきなんだ みんな 映画『東京喰種トーキョーグール』を

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。

 

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公開からかなり経ってしまったが、映画『東京喰種トーキョーグール』の感想をまとめていこうと思う。

総評

実写映画『東京喰種トーキョーグール』は主人公カネキの成長譚として原作漫画(1〜3巻)を2時間に過不足なく再構成し、原作を読んだときの読後感を巧みに再現した素晴らしい作品だった。

原作を初めて読んだときに私が魅力を感じたのは、人間と喰種の両方に共感できるように物語が進むところ(どちらも正しくどちらも悪く見せるところ)、主人公カネキが無知であることを自覚し「分からない」と言うところ、そしてさまざまな葛藤の末に「知るべきなんだ みんな」という考えに至るところなのだが、今回の実写映画はまさにこれらのポイントを大切にしながらカネキの葛藤を通して喰種という異種(広く他者と捉えても良いかもしれない)と共生することへの模索を描いている。

物語の軸となるカネキの葛藤は極めて普遍的なものであるため、原作ファンであっても原作を読んでいない人にとってもそれぞれに楽しめる作品になっていたと思う。実際、原作を全く知らない母(俳優ファン・映画ファンというわけでもない)と見に行ったときにも、物語の主題を理解することに全く困難さを感じていなかったし、「原作を知らなくても十分面白かった。現代社会における重要な問題提起をしている。他のひとにも強く勧められる」と興奮気味に語っていたほどだ。

この作品を実写化した意義、そして映画作品としての成功を感じるのは、「原作ファン頼み」「俳優ファン頼み」と「◯◯頼み」になっていないこと、原作を大切にしたうえで映画作品としていかに良いものを作るかが徹底的に話し合われたのだろうと感じられる点だ。主題歌「BANKA」を歌ったIllionの野田洋次郎さんが「自分もこの映画のスタッフ、キャストの皆さんの熱量に追いつきたいと思った」と語り、蒼井優さんも「最初の現場から1ヶ月近く経っても現場のテンションが全く落ちていなかったのに驚いた」と語っているように、監督、演出、脚本、CGやVFX、音・音楽、芝居、小道具、衣装、そして作品の企画から宣伝に至る映画製作のあらゆるプロセスに「これまでにはない映画を作ろう」という意気込みが感じられ、それぞれの技がそれぞれの場所で光っていた。

映画化を応援してくれる原作者石田スイ先生の協力もかなり心強いものだった(作品を待っていた者にとっても)。石田先生は実写化が発表される際につぎのようにコメントをしているが、出来上がった作品を見て、私はこれが証明されているのではないか感じた。それぐらい正しいモノづくりの在り方を見たような印象を受ける。

どこかでも発言しましたが、実写化に関して、もちろん不安はあります。映画の製作側の方々が本当に根気良く、原作者である自分の意見を聞いてくださっていて、自身の不安は少しずつですが取り除かれました。ものをつくる環境としては、とても健全な場所だなと感じておりますし、本来そうあるべきだと思います。しかし、それによって映画が良くなるのかはわかりませんし、結局ダメになっちゃうかもしれません。ただ、個人的な望みを申し上げれば、「健全な環境でつくればちゃんと良いものが出来るんだ」ということを、監督の萩原健太郎さんに証明していただければいいな、と願っております*1

 

実写映画が抱える難しさのひとつにはキャスティングがあるが、役者のハマり具合も凄い。とにかくどの役者も声と動き(表情を含む)がよかった。実写映画ではビジュアルはもちろん大事だが、ただ似ていたところで声やしゃべり方、表情が合わないとキャラクターの感情は伝わってこないし、違和感を生んでしまう。が、今回のキャスティングではそのような違和感を感じたキャラクターはいなかった。それぞれの役者の声と表情が立体的にキャラクターの心情を表現してみせるので、人を喰う喰種が存在する世界がリアリティを持ってすんなりと受け入れることができた。細かい芝居についてはまた稿を改めたいと思うが、主人公カネキを演じた窪田正孝はもちろん、リゼを演じた蒼井優も素晴らしかったし、トーカ役の清水富美加、ニシキ役の白石隼也、ヒヨリ役の桜田ひよりは想像していた以上によかった!

実写映画が陥りがちな原作ファンに媚びたコスプレ感を感じさせなかった点も良い。カグネのビジュアルや動きもその世界のなかで必然性を持ってそのような姿をしていることが感じられたし、セリフとして言葉にせずとも登場人物たちの性格や背景などを想像させるような造形には説得力があった。

最後に、何よりもこの映画は見るたびに新しい発見を与えてくれる。回を重ねるごとに「自分は最初に何を見ていたのだろう」と考えさせられる。そんな映画体験は貴重だと思う。まだ観ていない方はもちろん、すでに観ている方もぜひ何度でも足を運んで欲しい。

 

とは言え、上記の総評ではあまり細かいことが論じられていないので、これから少しずつ細かい点についてまとめていきたい。 

 

ドラマ『僕たちがやりました』WEB記事まとめ(1)第1話放送前編

 

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7月18日(火)21時スタートの夏ドラマ『僕たちがやりました』関連のWEB記事のまとめです。

他のキャストも含めると膨大な量になりそうだったので、窪田くんの記述が出てくるものを網羅的に載せています(いい記事で漏れがあればお知らせください)。随時更新中。自分用リストですが参考にななるようでしたら幸いです。

 

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NHK 土曜ドラマ『4号警備』第1話:ドラマの演出について

昨日の記事で、ドラマ『4号警備』が身辺警護という仕事を依頼人の「生きる」に向き合い、死や危険を一緒に乗り越える仕事として描いていると書いた。今日はそれにまつわるドラマの演出について考えてみる。

 

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死や危険を一緒に乗り越える仕事としての警備

「死や危険を一緒に乗り越える仕事」としての警護は、視覚的にはドラマのなかで橋や橋に類するものによって表現されている。例えば、朝比奈と石丸が広瀬の警護を行う最初の場面が、踏み切りを一緒に渡る場面であることもそのひとつの表れだと考えられるだろう。

その他にも、このドラマにはつぎのようなさまざまな場面で橋や橋に類するものが登場する。

4:00 朝比奈と石丸が高速道路を見渡す場所からバートランドを乗せた飛行機を見送る

5:23 朝比奈と石丸が出会う

17:55 会社から出た後、朝比奈が石丸に声をかける

26:50 警備会社の窓から見える橋

一方で、橋の下を流れる川や走る電車や車、人間の流れ(スーパーへ駆け込む客、廊下を逃げるひと)などは危険や死と結びつく。舞台となる警備会社の近くに川が流れているのも、警備が危険・死と密接に関わることの暗喩と捉えられるだろう。朝比奈の恋人が転落死する場所も高架化された駅前広場であったし、予告のなかで阿部純子演じる上野が転落する場面でもこのイメージが使われている。

死と川、水と女性

死と結びつけられる川のイメージは、広瀬が母親について語る場面(写真上)とボクシングジムで荒れる朝比奈の場面の直後に挿入される数秒の川の風景ショット(写真下)に登場する。亡くした誰かを思い起こすとき、画面には川が映り込んでいる。

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また、水はしばしば女性を表すものとして芸術作品に登場するが、この二つの場面では、川という水辺が広瀬の母親と朝比奈の恋人というように女性の存在を絡める効果をもたらしている。この点、石丸の場合には、石丸の部屋にある水槽やそのなかを泳ぐ二匹の金魚によって妻や娘の存在や彼らに対する石丸の態度が暗示される仕掛けになっている。

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yanabura.hatenablog.jp