柳の木の下でブランコを漕ぐ

俳優窪田正孝さんを楽しむ私の隠れ家

映画『東京喰種トーキョーグール』には原作愛が詰まっている

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。映画をすでに観ているけれど原作はまだという方で、原作の細部について知りなくない方もご注意ください。ネタバレというような内容ではないですけど。

 

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あまり映画の本筋には関わらないことですが、この映画は見れば見るほどいろいろと発見があって面白い。特に原作を読んでいる方ならおおお?と思うところがいくつかあるので個人的な覚書程度にまとめておく(ちょっと自信がないものもあるのだけれど)。

  • 真戸が食べているドーナツがドーナツマイスターのもの。ドーナッツ・マイスターは原作に登場するドーナツ店の名前。
  • ヒデが渡す東洋史のノート表紙に描かれているカネキの落書きが原作でヒデが描いた喰種予想図(そもそも喰種を予想しようと言ってカネキの絵を描くヒデにおや?と思ってしまう)。映画では最後のシーンで東洋史のノートがヒデのもとに返されるのだが、カネキはヒデに向けてノートに何を書いたのだろう。 

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  • カネキが半喰種になる前のあんていくのシーンの客に何名か(少なくとも2人確認)喰種の常連さんが。客が全員喰種のときにも同じ場所に座っている。一人は原作でヒデを狙ったハンチング帽の男性に、もう一人は青っぽいシャツを着た男性で、原作では亜門戦のあとでカネキを褒める常連さん(「すごいでふ」って言ってる方)に容姿が似ているなあと思った。

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  • ニシキがいる部屋にあるコーヒーがBlondy。
  • タロットカードとローマ数字関連。笛口リョーコが殺される高架下に描かれた死神のイラストとⅧの文字。トーカとカネキが訓練を行う地下には赤いⅢの文字。亜門のデスクの上にあるドリンク飲料にVの文字(これはただの偶然?)。死神とⅧはリューコとヒナミが真戸と亜門に声をかけられるシーン、そして終盤で真戸がヒナミに声をかけるシーンで綺麗に映りこんでくる。
  • あんていくの棚にフクロウのような木製の置物が2体置いてある。見間違えではないと思うけれど「2体」あるっていうところが。
  • 依子のカバンについているキーホルダー?とトーカのケータイについているストラップ(「通れ、通れ」のシーンでポケットから見えている)がおそろいで、原作に登場するzackというシリーズのうさぎのキャラクター「カチカチ」がついている? ストラップのはっきりとした写真は書籍『東京喰種-トーキョーグール-[movie]』に掲載されている。
  • CCGインターフェース。これは映画鑑賞中に見つけるのは難しそうですが、CCGのインターフェースを製作された方のこだわりがすごい。石田スイ先生も驚いている。

 

まだ見つけれていないものがあるんだろうなあ。こんな発見をするのも楽しくて何度も見てしまう。

*1:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 12/225)東京:集英社より引用

*2:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 18/208)東京:集英社より引用

*3:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』4巻(デジタル版, 位置No. 18/194)東京:集英社より引用

「見る」ことによって成長する主人公

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。

 

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主人公カネキの目から始まりカネキの目で終わるこの映画は、長編の原作漫画の序章に焦点を当て、主人公カネキの葛藤と成長を軸に物語を再構成することによって、原作が持つ世界観や普遍的な問いを映像作品として鮮やかに浮き上がらせることに成功している。

萩原健太郎監督が「“見る”ということがどういうことかを描きたかった」と語っているように*1、この作品ではカネキの葛藤や成長において「見る」ことが重要な鍵となっている。それが最も明確に表されているのが、映画の最初と最後に映るカネキの目である。 

冒頭のカネキの目には光がない。(親友のヒデに声をかけられる角度からして)よそ見をしていて物をまっすぐに見ていないし、「喰種かあ……」と他人事のようにヒデの話を聞き、喰種に関するニュース映像にもまともに目を向けない。目の前の活字を追うことにしか関心がないのだ。この作品は、見ようとしない、知ろうとしない、見えていないことにも無自覚なカネキが事件をきっかけに喰種たちと共に暮らし、彼らの生活を目撃することによって、見ようとする、知ろうとするように成長していく物語だ。その成長の過程は、例えば、「分かりません」、「僕は一体何なんですか」、「僕に何かできることはありませんか」、「ちゃんとこの目で見てどうするか決めたいんです」、「何もできないのは もう嫌なんだ」、「あなたたちが正しいとも僕には思えない」、「もっと知るべきなんだ みんな」といったカネキから発せられる言葉からも認識することができる。また、あんていくでスタッフたちとグール捜査官たちの写真を回していく場面でも、カネキが写真を見ようとする姿が垣間見える(四方と入見にスルーされ、ヒナミにやっと見せてもらえるのだけれど)。一連の出来事を経験した後のカネキは親友のヒデ(が座っていた椅子)やあんていくの仲間たちの方を見据え、その目にはしっかりと光が宿っている。

「見る」こと「知る」ことは理性的であることにも結びつけられる。半喰種となり喰種の食欲で飢餓状態になっている様はカネキが理性を欠いている状態を表し、お腹を空かせて涎を垂らしながら繁華街を彷徨い歩くカネキの姿はまるで獣のようだ。その意味でこの作品は食欲を通して喰種の本能に飲み込まれていくカネキが、自分の姿を理性を持って受け入れていく物語でもある。例えば、この映画のなかでカネキがカグネを出して戦う場面はニシキ戦と亜門戦で2回あり、それぞれの場面で物に映し出される自分の姿を見ることになるのだが、あんていくで働き始める前と後とでは目に映るものが異なる。ニシキ戦では、喰種の本能を抑えることができず映し出される自分自身にさえ自分ではなくリゼを見てしまうのだが、亜門戦では自分自身が何者であるかが見えるようになり、理性を取り戻すのだ。

この映画は同時に観客にも見ること、知ること、考えることを促す。原作ではカネキのモノローグによって物語が進行するが、映画はモノローグを排除することによって主人公の内面からは切り離し、観客がより客観的に人間側と喰種側の立場を見ていく設計になっている(そのためにいくつかの場面は原作にはなかったものが挿入されている)。カネキがあんていくで働き始める前まではリゼやニシキによって喰種の残酷な側面が強調されるが、あんていくのスタッフと出会うことによって残酷ではない喰種たちもいることや喰種たちにも人を喰べることに葛藤があることをカネキも観客である私たちも知っていくことになる。他にも、四方が自殺者の死体に手を合わせるところを見るカネキ、カネキが笛口アサキの墓で手を合わせるのを見る草場。目の前でCCGに母親を殺されたヒナミ、目の前で両親を喰種に殺された少年。母親を殺されたヒナミ、息子を殺された草場の母親など、人間側と喰種側の視点が対を成すように配置され、それによって人間と喰種のどちらにも共感でき、どちらが正しい(あるいは間違っている)とは言えないのではないかという葛藤に観客たちを引き込んでいく。

この映画を見る行為それ自体も見るたびに新しい発見を与え、「見る」ことが何であるかを意識させてくれる体験だ。役者の仕草に、セリフの意味に、音楽の効果に、周りの風景に、カグネの質感や動きに、小道具の配置に注目して見てみると、この映画には毎回必ず気づきがある。そんな風にして自分が確かに見ていたはずのものが「見えていなかった」と気づかされるのだ。

最後に、原作をまだ読んでいない方にはぜひ原作も読んで欲しい。映画を見て少しは「知った」と思っていたあのキャラクターやあのキャラクターやあのキャラクターについて、実はまだほんの一側面しか知らなかったのだときっと知ることになるだろう。

 

(8月20日 10:30追記)

「見る」ことについての記述に少し補足を。

最初のカネキは物を見ていないし、見ていないことにも無自覚だと書いたけれど、それは同時に「見られる」ことにも無自覚だということ。特に最初のリゼとのデートシーンでのカネキの挙動不審具合は、まるで素人がカメラの前に立たされたような目の泳ぎとぎこなちでいたたまれない気持ちにさせられる。それを芝居で見せてしまう窪田正孝の技が凄いわけだけれど、素人と役者やタレントの何が決定的に違うかと言えば「見られる」ことへの意識ではないか。リゼに襲われる前にトーカに2度も「見られている」にも関わらずカネキがそれに気がつかないのは、単純にトーカがカネキを認識していることの説明としてだけではなく、カネキに「見られている」という意識が決定的に欠けていることの現れのように思えてならない。

喰種たちはおそらく自分の生存がかかっているからこそずっと「見られること」に自覚的であるはずで、きっとリゼはカネキに「見られている」ことにすぐに気づいたに違いない。

見るべきなんだ みんな 映画『東京喰種トーキョーグール』を

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。

 

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公開からかなり経ってしまったが、映画『東京喰種トーキョーグール』の感想をまとめていこうと思う。

総評

実写映画『東京喰種トーキョーグール』は主人公カネキの成長譚として原作漫画(1〜3巻)を2時間に過不足なく再構成し、原作を読んだときの読後感を巧みに再現した素晴らしい作品だった。

原作を初めて読んだときに私が魅力を感じたのは、人間と喰種の両方に共感できるように物語が進むところ(どちらも正しくどちらも悪く見せるところ)、主人公カネキが無知であることを自覚し「分からない」と言うところ、そしてさまざまな葛藤の末に「知るべきなんだ みんな」という考えに至るところなのだが、今回の実写映画はまさにこれらのポイントを大切にしながらカネキの葛藤を通して喰種という異種(広く他者と捉えても良いかもしれない)と共生することへの模索を描いている。

物語の軸となるカネキの葛藤は極めて普遍的なものであるため、原作ファンであっても原作を読んでいない人にとってもそれぞれに楽しめる作品になっていたと思う。実際、原作を全く知らない母(俳優ファン・映画ファンというわけでもない)と見に行ったときにも、物語の主題を理解することに全く困難さを感じていなかったし、「原作を知らなくても十分面白かった。現代社会における重要な問題提起をしている。他のひとにも強く勧められる」と興奮気味に語っていたほどだ。

この作品を実写化した意義、そして映画作品としての成功を感じるのは、「原作ファン頼み」「俳優ファン頼み」と「◯◯頼み」になっていないこと、原作を大切にしたうえで映画作品としていかに良いものを作るかが徹底的に話し合われたのだろうと感じられる点だ。主題歌「BANKA」を歌ったIllionの野田洋次郎さんが「自分もこの映画のスタッフ、キャストの皆さんの熱量に追いつきたいと思った」と語り、蒼井優さんも「最初の現場から1ヶ月近く経っても現場のテンションが全く落ちていなかったのに驚いた」と語っているように、監督、演出、脚本、CGやVFX、音・音楽、芝居、小道具、衣装、そして作品の企画から宣伝に至る映画製作のあらゆるプロセスに「これまでにはない映画を作ろう」という意気込みが感じられ、それぞれの技がそれぞれの場所で光っていた。

映画化を応援してくれる原作者石田スイ先生の協力もかなり心強いものだった(作品を待っていた者にとっても)。石田先生は実写化が発表される際につぎのようにコメントをしているが、出来上がった作品を見て、私はこれが証明されているのではないか感じた。それぐらい正しいモノづくりの在り方を見たような印象を受ける。

どこかでも発言しましたが、実写化に関して、もちろん不安はあります。映画の製作側の方々が本当に根気良く、原作者である自分の意見を聞いてくださっていて、自身の不安は少しずつですが取り除かれました。ものをつくる環境としては、とても健全な場所だなと感じておりますし、本来そうあるべきだと思います。しかし、それによって映画が良くなるのかはわかりませんし、結局ダメになっちゃうかもしれません。ただ、個人的な望みを申し上げれば、「健全な環境でつくればちゃんと良いものが出来るんだ」ということを、監督の萩原健太郎さんに証明していただければいいな、と願っております*1

 

実写映画が抱える難しさのひとつにはキャスティングがあるが、役者のハマり具合も凄い。とにかくどの役者も声と動き(表情を含む)がよかった。実写映画ではビジュアルはもちろん大事だが、ただ似ていたところで声やしゃべり方、表情が合わないとキャラクターの感情は伝わってこないし、違和感を生んでしまう。が、今回のキャスティングではそのような違和感を感じたキャラクターはいなかった。それぞれの役者の声と表情が立体的にキャラクターの心情を表現してみせるので、人を喰う喰種が存在する世界がリアリティを持ってすんなりと受け入れることができた。細かい芝居についてはまた稿を改めたいと思うが、主人公カネキを演じた窪田正孝はもちろん、リゼを演じた蒼井優も素晴らしかったし、トーカ役の清水富美加、ニシキ役の白石隼也、ヒヨリ役の桜田ひよりは想像していた以上によかった!

実写映画が陥りがちな原作ファンに媚びたコスプレ感を感じさせなかった点も良い。カグネのビジュアルや動きもその世界のなかで必然性を持ってそのような姿をしていることが感じられたし、セリフとして言葉にせずとも登場人物たちの性格や背景などを想像させるような造形には説得力があった。

最後に、何よりもこの映画は見るたびに新しい発見を与えてくれる。回を重ねるごとに「自分は最初に何を見ていたのだろう」と考えさせられる。そんな映画体験は貴重だと思う。まだ観ていない方はもちろん、すでに観ている方もぜひ何度でも足を運んで欲しい。

 

とは言え、上記の総評ではあまり細かいことが論じられていないので、これから少しずつ細かい点についてまとめていきたい。 

 

『東京喰種トーキョーグール』2巻を読む

 

2巻では、カネキが喫茶店「あんていく」でアルバイトを始め、喰種としての生活をスタートさせる。 ウタさんが「ぼくらが人間社会に溶け込むのなんて、言っちゃえば "終わりのない綱渡り" みたいなもんでさ……」と言うように、喰種たちがいかに苦労をしながら人間に紛れて生活しているのかを読者はカネキ目線で知ることになる。

 

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喰種=虫

喰種は、赫子(かぐね)の見た目や匂い(フェロモン?)への反応から虫の化身のような特徴を持っているが、真戸が発する喰種への言葉にも虫に関する表現が頻出する。

「飛んで火にいる何とやら……」

「羽虫が自ら蜘蛛の網に引っ掛かりおったな」

「母が子のため命を捨てる……クク……虫酸が走るよ*2

「所詮、小虫……。遠くへは行けないさ」

こうやって並べてみると、虫に対する人間の言葉はかなり辛辣だ。「虫」を使った褒め言葉が思いつかない。

 

突如発動されるカネキ=ネコ=窪田正孝という設定

「喰種=虫」の関係が現れる一方で、2巻のカネキは突然なぜか猫になる(たぶん2巻だけ?)。「猫といえば窪田正孝」なので、関連させて読まずにはいられない。

例えば、つぎの場面。カネキが淹れたカプチーノをヒデに持っていくが、デザインカプチーノにはネコの絵が。

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つぎの場面では、カネキは理不尽にもトーカに「ニャーニャーうるさい」と怒られる。

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ヒデ

この物語のなかでヒデはかなり重要な人物だ。原作の中でもまだヒデは謎に包まれているので、細かく見ておきたい。

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この場面、ヒデは明らかに何かに気づいている。カプチーノをトーカではなくカネキが淹れたこと? それとも近江という名の喰種に狙われていること?(実際この後ヒデは近江に追われるが逃げきる。) その両方かもしれない。

「ヒデは変な所で勘が鋭くて、いつも一歩先で僕を気遣ってくれる」とカネキが言うように、ヒデは作品の中でも鋭い推理を披露する。だからこそ、ヒデの表情は細かい変化を観察してみても、一体どこまで何を知っているのかがこちらには分からず、不安な気持ちにさせられる。ふとした瞬間の寂しそうなヒデの表情を見てしまうと、ヒデがつり目がちに笑ってしゃべっているときの方が嘘なのではないかという気さえしてくる。*6

 

喰種の定義

"喰種" 対策法12条1項「赫眼および赫子の発生が確認された対象者を第Ⅰ種特別警戒対象 別称 "喰種" と判別する」この定義によると、カネキは正真正銘 "喰種" ということになる。 

 

ウタさんの首の刺青

この巻でマスク職人のウタさん登場。首に彫られたラテン語の文字は、マルティアリス『エピグランマタ』のなかの一節(12.47)だそうだ。意味は「私はあなたとともに生きてはいけない、私はあなたなしでは生きていけない」(12巻ではウタ自身が刺青の文字の意味をカネキに説明する場面がある)。*7

この詩には直前にももう一文あって、全体ではこのような詩になっている。喰種と人間との関係について語っているようにも読める? 

同じ一人のお前が気難しいかと思えば容易に言うことをきき、

   愉しそうにしているかと思えば苦虫を噛みつぶしたよう。

わたしはお前といっしょにも、お前なしでも、暮らせない。*8

 

XLVII. ON A FRIEND.

You are at once morose and agreeable, pleasing and repulsive. I can neither live with you, nor without you.*9

  

胸のなかの "松明"

「君のその火は正しき世界を求める者には必ず燃え広がってゆくだろう。要は胸の内に "松明" を持っているかどうかだ。火を灯すためのね」と真戸が亜門にかける場面。

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この "松明" という表現、個人的には、コーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』に登場する「火を運ぶ  "carry the fire"」という表現を想起する。

ザ・ロードは、詳細不明の災いに見舞われた世界を舞台に、父と子が南へと移動する物語だ。生き残った人間たちの多くは、生き残るために人を襲って食べている(他の動植物がいないほどに荒廃しているため)。そのような状況のなか、父と子は「自分たちは人を食べない。なぜなら火を運んでいるから」と次のように語り合う。

パパの顔を見るんだ。

少年は彼に顔を向けた。今まで泣いていたように見えた。

話してごらん。

ぼくたちは誰も食べないよね?

ああ。もちろんだ。

飢えてもだよね?

もう飢えてるじゃないか。

さっきは違うことをいったよ。

さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。

それでもやらないんだね?

ああ。やらない。

どんなことがあっても。

そう。どんなことがあっても。

ぼくらは善い者だから。

そう。

火を運んでるから。

火を運んでるから。そうだ。

わかった。*11

 

また別の場面では、死を目前にした父親がつぎのように息子に語りかける。

パパと一緒にいたいよ。

それは無理だ。

お願いだから。

駄目だ。お前は火を運ばなきゃいけない。

どうやったらいいかわからないよ。

いやわかるはずだ。

ほんとにあるの? その火って?

あるんだ。

どこにあるの? どこにあるのかぼくは知らないよ。

いや知ってる。それはお前の中にある。前からずっとあった。パパには見える。*12

 

「人を喰う」という設定が重なっているだけではなく、「火」がいずれの作品でも「人間らしさや人間としての正しいあり方(具体的には「人を喰う者がいてはならない」と思う気持ち)」の象徴として使われている点も共通している。真戸と亜門の関係は父と子のような関係にも見えるし、最後に父親が死ぬという点も共通していて、この小説が関係しているように思えてならない。

 

「だから僕はちゃんと自分の目で見てからどうするか決めます!」

「人が死ぬのも"喰種"が死ぬのも それが僕の知っている人だったら耐えられない」

「それが僕の知っている人だったら」というのがポイントだなと思う。この作品でくり返されるメッセージだけど、世の中の問題はたいてい「相手を知らない」ことで生じるし、「相手を知らない」からこそ問題が悪化する。"喰種" も "人間" も相手を知らないからこそ簡単にお互いを殺すことができる。

反対に、食料として生き物を摂取するときには「相手を知らない」ことがむしろ重要になる。角砂糖型の人肉というのはまさに知らないままでいるためには有効な方法だ。私だって個々の牛や豚、魚について深く知ったなら、食べることはできなくなるかもしれない。この点 "喰種" の立場は辛いだろうな。普段共に生活し、意思疎通が図れる "人間" の命を奪わなければいけないのだから。

 

『東京喰種トーキョーグール』3巻を読むにつづく

*1:Photo By wildfires

*2:「虫酸」自体は胃内の酸敗液を指すが、表現の成り立ちには虫が関係しているようだ。「昔は人間の体の中に実体の無い虫が存在して、この虫が悪さをして人間の不快感等を引き起こしていると考えられていたようです。『腹の虫』『虫の知らせ』『虫がおさまらない』などの言葉もここから来ています。」引用元:虫酸が走るの虫酸ってどう言う語源なのでしょうか? - 虫酸が走るの「虫酸... - Yahoo!知恵袋(2016年9月4日アクセス)

*3:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 16/208)東京:集英社より引用

*4:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 30/208)東京:集英社より引用

*5:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 18/208)東京:集英社より引用

*6:おそらくこんな風に考えてしまうのは、ヒデに関するいろいろな説を知ってしまったからと、カネキが嘘をつくときの癖をヒデが知ってることに原因があるように思う。何度も読んでいると、反対にヒデが嘘をついているときの仕草や表情が作中に既に登場しているのではないかという気がしてしまう。嘘なんかついていないのが一番だけど。

*7:このサイトでもウタさんの刺青について質問をしている方がいる。皆気になっているんだな。Nec tecum possum vivere, nec sine te. | 山下太郎のラテン語入門

*8:藤井昇訳『マールティアーリスのエピグランマタ(下)』(p. 253)東京:慶應義塾大学言語文化研究所 より引用

*9:Martial, Epigrams. Book 12. Mainly from Bohn's Classical Library (1897) より引用(2016年9月4日アクセス)

*10:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』2巻(デジタル版, 位置No. 88/208)東京:集英社より引用)

*11:コーマック・マッカーシー(黒原敏行訳)『ザ・ロード』(pp. 114-115)東京:早川書房 より引用

*12:コーマック・マッカーシー(黒原敏行訳)『ザ・ロード』(pp. 252-253)東京:早川書房 より引用

『東京喰種トーキョーグール』1巻を読んだ③

少し前に『東京喰種』の原作は『東京喰種:re』も含めて刊行されているものはすべて読んでしまったんですが、相変わらずこのペースで1巻に戻ります。

それにしても読めば読むほどカネキ役は窪田くんにぴったりですね。もはや窪田くんにしか見えない。それでいて物語はハッピーには進まないので気持ちとしては複雑なのですが。

後半は魅力的な登場人物がどんどん登場し、アクションやバトルシーンのオンパレードで正直まだ何が起こったのか物語の整理が追いついていません(映画ではバトルシーンはどうやって描くんだろうか……)。映画公開まで時間があるので、ゆっくり原作を振り返りつつ楽しみたいと思います。

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ヒデ「カネキなんかあっという間に喰われるだろーな」

カネキ「僕が "喰種" ならヒデはとっくに死んでると思うよ」

まだカネキが半喰種になっていないときの喫茶店「あんていく」での会話。実際にはこのふたりの予想は覆されることになる。ただしとても悲しいかたちで。『東京喰種:re』最新刊まで読んでから1巻に戻ってみると、このやりとりはとても切ない。

 

揺らぐ "喰種" と "人間" の境界

『東京喰種』には "人間" と "喰種" のふたつの人種(?)が登場する。その描き分けでまず気づくのは吹き出しの色だろう。人間の言葉は黒い文字で、喰種の言葉は白抜きで描かれる。例えば、その区別がもっともはっきり現れている1コマがカネキが自らの境遇に絶望し移植された臓器を取り出そうとする場面だ。

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見開き2ページにわたって描かれるこのコマは鬼気迫るものがある。ここでは「人間に戻ろうとする "人間" としてのカネキ」(黒文字)と「それを許さない "喰種" としてのカネキ」(白抜き)との闘いが視覚的にも分かる形で表現される。「ド」が黒文字で「ん」が白抜きという順番にも納得できるし、カタカナとひらがなの混在も異質なもののぶつかり合いを強調している。  

ただ、喰種が発する言葉がすべて白抜きになるかというとそうではない。喰種たちが普段は人間に紛れて生活しているように、彼らが発する言葉も普段は人間と変わらない形で表現され、人間の世界に紛れ込む。もちろん喰種の言葉が最初から白抜きで出てきたなら誰が喰種であるかがすぐに読者にわかってしまう、それは避けなければいけない、というような配慮もあるのだろう。けれど、どのような理由にせよ、喰種たちが常に白抜き文字で言葉を発しないことは、"人間" か "喰種" かという区別が一見すると個体(キャラクター)ごとに決まっているように見えて、実はその境界がすでに揺れていることを暗示している。実際、作品が進むにつれて "人間" か "喰種"かの境界は曖昧になり、『東京喰種: re』に入るとその境界はよりいっそう不確かなものになっていく。

漫画では吹き出しで描き分けを行っているが、同じ部分をアニメでは薄い赤いもやのようなものを描くことで演出していた。映画ではどのように描かれるだろうか。個人的には、赤くなった "喰種" の目に世界はどのように映っているのだろう、という点が気になっている。

 

ヒトではない自分、ヒトからは理解されない自分に気づくとき

ナイフで自分の体を刺した後、カネキはその思いが叶わないとわかって絶望する。このまま生きていくためにはいつかヒトを食べなければいけない、それをしてしまったら自分はもうヒトではないかもしれない。この場面には胸が締めつけられる。

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私はそんなに漫画に詳しくないのだけれど、この場面を読んだとき、ある別の漫画の1コマが頭に浮かんだ。古谷実*3ヒメアノ〜ル』6巻の見開き2ページに渡る1コマだ。

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このシーンは、森田という主人公の幼馴染が自分が人間を殺すことに快楽を感じていることに気づいて絶望する場面。そうなりたくてなったわけではない、けれど自分は絶対に社会からは受け入れられない異常性を抱えて生まれてきてしまった。そんな森田の悲しみや孤独が、この全身で泣いているシーンからは(穏やかな山の風景との対比もあって)痛いほど伝わってくる。自分の意思とは関係なく半喰種になってしまったカネキの絶望とも重なる。

 

カネキとヒデ

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(カネキを窪田くんが演じることになったからこそ感じるのだけど、)このヒデとカネキの1コマは、私はどうしても『ケータイ捜査官7』のケイタとタツローの関係を思い起こさずにはいられない。

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虫、鳥、卵から生まれるものたち

1巻の最後で店長がカネキに言葉をかける場面。この場面でトーカが蝶に向かって手を伸ばし、蝶が指にとまる場面が描かれる。

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ここでも表現されているように、喰種は赫子(かぐね)の見た目からしてもどこか虫の化身のような特徴を持っている。喰種捜査官たちが喰種たちから「白鳩」と呼ばれているのも、虫を捕食する鳥というイメージと結びつきやすい。

ただ、2巻に入ると喰種の側に「梟」が出てくるのでよくわからなくなる。あと、虫も鳥も卵から生まれることは共通しているな、などと思ったり。

つぎは2巻へ。

yanabura.hatenablog.jp

*1:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 95-96/225)東京:集英社より引用

*2:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 98/225)東京:集英社より引用

*3:このブログで書く機会はないと思いますが、私は古谷実さんの漫画の大ファンです。ギャグ要素を使ってあらゆる突拍子もない可能性に果敢に挑んでいる方として心から尊敬しています。『ゲラクシス』もこれからの展開が楽しみ。

*4:古谷実ヒメアノ〜ル』6巻(デジタル版, 位置No. 180-181/187)東京:講談社より引用

*5:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 156/225)東京:集英社より引用

*6:©WiZ・Production I.G・バディ携帯プロジェクトLLP/テレビ東京ケータイ捜査官7』, DVD File 10, Episode 36「ともだち」より引用

*7:石田スイ『東京喰種トーキョーグール』1巻(デジタル版, 位置No. 218/225)東京:集英社より引用