読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

柳の木の下でブランコを漕ぐ

俳優窪田正孝さんを楽しむ私の隠れ家

「誰か」の存在を信じる物語……にはならなかった映画版『64-ロクヨン-後編』

映画版『64-ロクヨン-後編』を見てきました。豪華なキャスト陣の演技が素晴らしく、見応えのある映画ではあったのですが、個人的には映画オリジナル部分をを含め、残念感が残りました。原作と違ったからダメだと思ったのではありません。原作が描いているもの、映画版が描いているものとを比較し、やはり原作の方がよいなと思ってしまったのです。

原作既読、NHKのドラマ版は第1話の最初だけを見ている程度ですが、この残念感の原因を考察してみたので感想の一部をまとめます。

+++++

 

映画版で何よりも私が残念だったのは、ロクヨン犯人逮捕後の三上夫婦のやりとりがほとんど描かれなかったことだ。この部分、原作では最後の静かなハイライトとなっている。この作品のタイトルは『64(ロクヨン)』であり、ロクヨン事件こそがこの小説のミステリー・サスペンス要素を担うことになるのだが、それだけで終わらないのは、この物語がロクヨンを通して娘の失踪を受け入れていく三上夫婦の物語であるからだ。

<あゆみにとって本当に必要なのは、私たちじゃない誰かかもしれないって思うの> 

 

<きっとどこかにいるんだと思う。ああなってほしいとかこうなってもらいたいとか望まずに、ありのままのあゆみを受け入れてくれる人が。そのままでいいよ、って黙って見守ってくれる人が。そこがあゆみの居場所なの。そこならあゆみはのびのび生きていける> *1

 

自宅にかかってきた無言電話が娘からではなかったことを説明された後、三上の妻美那子はそう言って娘が生きていける条件を、娘に寄り添う「誰か」の存在を創り出す。

妻が何もかも諦めてしまっていると思っていた三上はその究極の母親の姿にはっとする。自分は娘が生きていることを信じられていたか。

そして、三上は妻が考え出した世界を一緒に信じようと決意する(同時に三上を長い間悩ませていた目眩は消えている)。

美那子が作った世界を信じてみよう。「誰か」のいる世界を、あゆみが生きていける世界を、心から信じてみよう。

 

この考えが単なる諦めにも楽観にも思われないのは、三上夫婦が捜査という立場からロクヨン事件に関わった当事者であり、少女を誘拐し殺害する者が存在する世界を誰よりも知っているからだ。この二人が「誰か」の存在を信じるからこそ重みが出てくる。

だからこそ、映画版の日吉シーンには個人的に納得がいかない。日吉に犯人逮捕を知らせるのは三上でなければならないからだ。そうでなければ、犯人逮捕が三上や幸田、何よりも父親の執念の成果だと知ったなら、日吉は何を思うだろうか(そのような想像をすると私はゾッとしてしまう)。14年間自分を責め続けて引き篭もってしまった彼だからこそ、事件が終結したと知らせる「誰か」は重要なのだ。

原作では、日吉は三上からの電話でロクヨン事件の結末を知ることになる。しかも上述した夫婦の場面の直後にだ。母親にも解決することができない日吉の苦悩に対し、三上や他の自宅班メンバーだけが日吉にとっての「誰か」になることができたにも関わらず、映画はそうはさせなかった。犯人逮捕後の日吉シーンをなぜあのような形で切り取ってしまったのか。

三上夫婦の遺体確認シーンから始まる原作やテレビドラマに対し、映画版では序盤から誘拐事件が展開する。映画版前編を見たときにはこの演出が観客を引き込むのに効果的だと評価していたが、後編を見て、悪い形でロクヨン事件に、とりわけ「現実的に起訴できるか」に固執してしまったなと残念に感じている。

後編では三雲の影も薄くなってしまって、なんだか男たちの、父親たちの、刑事たちの物語になってしまった。本当はもっと広がりを見せることができる物語なのに。ただただその点が残念だった。

*1:引用:横山秀夫『64(ロクヨン)下巻』