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映画『64-ロクヨン-』と小説『64(ロクヨン)』:横山秀夫「『64 -ロクヨン-』の謎に迫る!」(TBSラジオ)

ラジオ 映画 『64-ロクヨン-』

6月20日(月)のTBSラジオ荻上チキ・Session-22』に映画『64(ロクヨン)』原作者の横山秀夫さんがゲストとして登場しました*1

映画版のオリジナル部分についても語られていて興味深かったので、その部分の書き起こしを載せます。言い淀みや言い直しなどは適宜削除しています。

 

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荻上チキ:原作者として、何か要望であるとか、例えばこういった風にしてくれない方がいいというような、何かそういった条件みたいなものはあったりしたんですか。

横山秀夫:条件なんていうものはもちろんないんですけども、私は会社を辞めたあと少年漫画の原作なんかも書いていましたんで、それも作家の力を入れるのと同じぐらい力を入れてやりましたから、もとの本であるとか脚本が現実に絵とか人物が立ち上がった場合、映像で立ち上がった場合に、まあ、同じになるはずがないと。

荻上チキ:そうですね。別のものですからね。

横山秀夫:そうですよね。だからなにか「原作に忠実」とかそういう話を聞きますけど、そんなの忠実なものなんてあるわけがない。もともとそういった幻想は持っていないんですが。

荻上チキ:必ず二次創作になるということはありますよね。

横山秀夫:そういうことですね。ただ、やっぱりその地続き感とかね、そういったものがどういう風に描かれているか、組み込まれているかっていうものを見たいですし、細かい点についての事実誤認みたいなこともあるでしょうから、そういった意味でも脚本はきちんと読むんですよ。で、今回は、だから後編で、さっき佐藤さんが仰ってましたけど、まあ最後のラストが大幅にというか、うーん、変わっているんですよね。その点については、瀬々監督と何度もやりとりをしましたね。

荻上チキ:やりとりのなかでは、実際に僕は映像と小説をそれぞれ見比べると、映像の方が、映像でもう一度見所というかひとつ映像的な喜び、物語的な喜びみたいなものを味わうっていうようなところを用意された感じというのはあって、一方で小説の方は、着地させるのに「全部ハッピーに終わりました」みたいな着地のさせ方ではなくて、ある意味問いを読者の方に抱え直すようなところがあって、随分と作品とか表現の仕方の違いみたいなものが出たのかなという気がしたんですけど、やりとりはどんなことをそこではされたんですか。

横山秀夫:そうですね。だからやはり、一言で言うと、小説の方の主人公の三上は最後までその職業人・組織人としての軸足の置き方が強いわけですよね。もちろん家族の方にもいろんな気をやりますし、さまざまなことに思いをはせるんだけれども、やっぱりそれは職業人から外れてしまうのでは、こちらが描こうとしているものとまたちょっと違ってしまうんでね。そういう意味では、最後まで職業人・組織人を貫いているわけだけども。まあ、瀬々監督、演じる佐藤さんも含めてですけども、ある意味家庭人の方に軸足を寄せつつ、まあ「人間三上」というものを表したかったんだ、というご説明だったんですよ。

横山秀夫:そこを何度も何度も話していて、まあそういう意味では、非常に地続き感もあるし、もちろん小説書くときって結末を10通りも20通りも考えるんですよね。で、そういうなかには、もちろん映画のような結末に近いようなものも思い浮かんでいるわけだけれども、だけどもそれをしたらこの小説は潰れてしまうと。これは最後はある意味決着をするんだけれども、自分のなかだけの決着で収める以外にこの小説ではあり得ないという形で、最後は消去法でそうなっていくわけですけれども。映像ならば、かえってこちらの方がいいのかなあなんて最近ちょっと思い始めてますね。ただ、私はまあ原作の方が好きですけどね(笑)

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*1:

記事のもとになっているラジオ放送は「TBSラジオクラウド」で会員登録をすると無料で聞くことができます。ご興味がある方はぜひ聞いてみてください。佐藤浩市さんと瑛太さんもコメントしています。(配信終了日時:2016/07/20 23:50)

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