柳の木の下でブランコを漕ぐ

俳優窪田正孝さんを楽しむ私の隠れ家

「見る」ことによって成長する主人公

 

※ 以下の記述には映画の細部について言及しているところがあるので、内容について知りたくない方はご注意ください。

 

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主人公カネキの目から始まりカネキの目で終わるこの映画は、長編の原作漫画の序章に焦点を当て、主人公カネキの葛藤と成長を軸に物語を再構成することによって、原作が持つ世界観や普遍的な問いを映像作品として鮮やかに浮き上がらせることに成功している。

萩原健太郎監督が「“見る”ということがどういうことかを描きたかった」と語っているように*1、この作品ではカネキの葛藤や成長において「見る」ことが重要な鍵となっている。それが最も明確に表されているのが、映画の最初と最後に映るカネキの目である。 

冒頭のカネキの目には光がない。(親友のヒデに声をかけられる角度からして)よそ見をしていて物をまっすぐに見ていないし、「喰種かあ……」と他人事のようにヒデの話を聞き、喰種に関するニュース映像にもまともに目を向けない。目の前の活字を追うことにしか関心がないのだ。この作品は、見ようとしない、知ろうとしない、見えていないことにも無自覚なカネキが事件をきっかけに喰種たちと共に暮らし、彼らの生活を目撃することによって、見ようとする、知ろうとするように成長していく物語だ。その成長の過程は、例えば、「分かりません」、「僕は一体何なんですか」、「僕に何かできることはありませんか」、「ちゃんとこの目で見てどうするか決めたいんです」、「何もできないのは もう嫌なんだ」、「あなたたちが正しいとも僕には思えない」、「もっと知るべきなんだ みんな」といったカネキから発せられる言葉からも認識することができる。また、あんていくでスタッフたちとグール捜査官たちの写真を回していく場面でも、カネキが写真を見ようとする姿が垣間見える(四方と入見にスルーされ、ヒナミにやっと見せてもらえるのだけれど)。一連の出来事を経験した後のカネキは親友のヒデ(が座っていた椅子)やあんていくの仲間たちの方を見据え、その目にはしっかりと光が宿っている。

「見る」こと「知る」ことは理性的であることにも結びつけられる。半喰種となり喰種の食欲で飢餓状態になっている様はカネキが理性を欠いている状態を表し、お腹を空かせて涎を垂らしながら繁華街を彷徨い歩くカネキの姿はまるで獣のようだ。その意味でこの作品は食欲を通して喰種の本能に飲み込まれていくカネキが、自分の姿を理性を持って受け入れていく物語でもある。例えば、この映画のなかでカネキがカグネを出して戦う場面はニシキ戦と亜門戦で2回あり、それぞれの場面で物に映し出される自分の姿を見ることになるのだが、あんていくで働き始める前と後とでは目に映るものが異なる。ニシキ戦では、喰種の本能を抑えることができず映し出される自分自身にさえ自分ではなくリゼを見てしまうのだが、亜門戦では自分自身が何者であるかが見えるようになり、理性を取り戻すのだ。

この映画は同時に観客にも見ること、知ること、考えることを促す。原作ではカネキのモノローグによって物語が進行するが、映画はモノローグを排除することによって主人公の内面からは切り離し、観客がより客観的に人間側と喰種側の立場を見ていく設計になっている(そのためにいくつかの場面は原作にはなかったものが挿入されている)。カネキがあんていくで働き始める前まではリゼやニシキによって喰種の残酷な側面が強調されるが、あんていくのスタッフと出会うことによって残酷ではない喰種たちもいることや喰種たちにも人を喰べることに葛藤があることをカネキも観客である私たちも知っていくことになる。他にも、四方が自殺者の死体に手を合わせるところを見るカネキ、カネキが笛口アサキの墓で手を合わせるのを見る草場。目の前でCCGに母親を殺されたヒナミ、目の前で両親を喰種に殺された少年。母親を殺されたヒナミ、息子を殺された草場の母親など、人間側と喰種側の視点が対を成すように配置され、それによって人間と喰種のどちらにも共感でき、どちらが正しい(あるいは間違っている)とは言えないのではないかという葛藤に観客たちを引き込んでいく。

この映画を見る行為それ自体も見るたびに新しい発見を与え、「見る」ことが何であるかを意識させてくれる体験だ。役者の仕草に、セリフの意味に、音楽の効果に、周りの風景に、カグネの質感や動きに、小道具の配置に注目して見てみると、この映画には毎回必ず気づきがある。そんな風にして自分が確かに見ていたはずのものが「見えていなかった」と気づかされるのだ。

最後に、原作をまだ読んでいない方にはぜひ原作も読んで欲しい。映画を見て少しは「知った」と思っていたあのキャラクターやあのキャラクターやあのキャラクターについて、実はまだほんの一側面しか知らなかったのだときっと知ることになるだろう。

 

(8月20日 10:30追記)

「見る」ことについての記述に少し補足を。

最初のカネキは物を見ていないし、見ていないことにも無自覚だと書いたけれど、それは同時に「見られる」ことにも無自覚だということ。特に最初のリゼとのデートシーンでのカネキの挙動不審具合は、まるで素人がカメラの前に立たされたような目の泳ぎとぎこなちでいたたまれない気持ちにさせられる。それを芝居で見せてしまう窪田正孝の技が凄いわけだけれど、素人と役者やタレントの何が決定的に違うかと言えば「見られる」ことへの意識ではないか。リゼに襲われる前にトーカに2度も「見られている」にも関わらずカネキがそれに気がつかないのは、単純にトーカがカネキを認識していることの説明としてだけではなく、カネキに「見られている」という意識が決定的に欠けていることの現れのように思えてならない。

喰種たちはおそらく自分の生存がかかっているからこそずっと「見られること」に自覚的であるはずで、きっとリゼはカネキに「見られている」ことにすぐに気づいたに違いない。